沖縄塩元売の歴史

戦後の沖縄・泡瀬の製塩業について

沖縄本島中部 泡瀬で塩の製造を開始

1945年(昭和20年)、太平洋戦争の難を逃れた避難民が米軍の作戦の関係で、沖縄本島中部の具志川村(現うるま市)髙江洲、前原、塩屋から勝連村(現うるま市)の南風原のあたりに集められ、この一帯を中心に前原市.[3]が誕生。
人口凡そ一万人、これら住民の平静をとりもどし生活の安定をはかるのが、市の大きな課題であった。特に食糧の確保については、いつまでも米軍の配給物資にばかり頼るわけにいかないので、食糧の自給体制をたてる必要があり、その一環として、塩の製造を計画した。製塩については、泡瀬は地の利を得ているし特に戦前戦中を通じて、製塩を職業としていた泡瀬の人々が、髙江洲、前原あたりには多数おり、これらの人々の間でも泡瀬の製塩の復活を希望する声があり、市の事業として塩屋と泡瀬で塩の製造を開始。


当時の泡瀬の風景

当時泡瀬は飛行場内にあり、飛行機の駐留地(米軍泡瀬飛行場)になっていたため、飛行機の翼の下を通って通勤したものである。
髙江洲、前原あたりに難を逃れた人々にとって、製塩を盛んにすれば、やがて泡瀬が解放になり、郷里に帰れる日も早かろうと、戦前の経験者はもとより、多くの人々が喜んで参加した。
その頃の製塩は戦争のために荒れた塩田の一部を修理しながら、小型平釜式の三つの工場を作り共同で開始した。

沖縄製塩株式会社の創立について

会社を設立し、泡瀬の塩業を復活。

1946年(昭和21年)、泡瀬は飛行場として使用中であったため帰郷が許されず、不本意ながらも、より近いということで字桃原の畑地と字古謝の地へ移動を始めた。
1946年(昭和21年)3月、美里村役所が美浦の軍施設跡に開所され村行政を開始。4月15日軍布告によって通貨制がしかれ、日本新円が法定通貨として流通するようになり、今までの現物給付の形態から、賃金制となり、それにつれて企業も免許制となった。そこで泡瀬の有志の間で製塩業を復興させるべく再三にわたって協議を重ねた結果、戦争によってこれまでに荒廃した塩田を復旧するのは個人の力では、到底不可能なことであるので、会社を設立しこれによって泡瀬の塩業を復活させようとの結論に達し会社設立。

沖縄県全需要の75%をまかなう。

1960年(昭和35年)、台湾からの原料塩を直接輸入する特約(沖縄総代理店)を結び、沖縄における原料塩は一括して沖縄製塩で取り扱う。
やがて会社の製品は沖縄の総需要5,000トンの実に75%をまかなうようになり、沖縄全島の隅々まで行き渡り安定した企業となった。 アーシマース(泡瀬塩)の名前で通ってきた泡瀬と塩の名は、全沖縄に広まった。 会社においては、本土復帰への対応策として、「沖縄の塩の需要は沖縄の生産で供給しよう!」との目標の下に流下式改良塩田建設から、イオン交換膜法製塩工場の建設などの計画。実現には至らなかった。

本土復帰・専売制導入の後

沖縄製塩が改良塩田造成のために築いた護岸と、約10ヘクタールの公有水面埋め立て許可は有効に利用されて、塩田地区の約40ヘクタールの埋立事業が行われ現在の泡瀬地区の街造りに大きく貢献。
本土復帰前の沖縄における塩業に貢献した功績と実績が認められ、沖縄製塩は日本専売公社から塩専売制度実施のための沖縄県における唯一の「塩元売人」に指定。
終戦以来幾多の困難を克服して築き上げた塩の生産と販売面における実績と貢献が認められた結果である。これにより沖縄製塩株式会社は、沖縄塩元売株式会社(本社:沖縄県那覇市港町)として引き継がれました。

沿革

1946年 沖縄製塩株式会社 設立
1947年 戦争で荒廃した塩田の復興、改良に着手。平釜での製塩を開始
1953年 近代的効用罐式製塩工場建設着工
1954年 同工場完成、効用罐による製塩開始。「文化塩」発売。
輸入した天日塩を溶解し、かん水を得る方式を採用することにより、これまでの天候に影響を受ける製塩から飛躍的に効率をあげ、安定的な製塩が可能になった。
1960年 「文化塩」を県内の卸問屋に販売する一方、輸入天日塩を原料塩として平釜製塩の業者へ販売。
1972年 祖国復帰により沖縄県においても塩の専売制度が導入されたため、製塩工場を閉鎖。 沖縄製塩㈱から沖縄塩元売㈱に社名変更し県内唯一の塩の大卸元となった
1993年 国会において塩の専売制度廃止が決議される。
1997年 塩専売制度廃止 泡瀬営業所設立
2002年 宮古営業所設立